学会の沿革

関西倫理学会の沿革

1950年(昭和25年)

7月1日、島芳夫京都大学文学部教授の発起により、近畿の倫理学研究者が集まり学会結成について懇談し、この企てを大いに推進することで意見が一致。連絡集会の便を考え、京都在住者を準備委員、幹事に依頼し、会結成までの具体的な活動を担当することにした(メンバーは下記、順不同、大学名は当時のもの)。

設立準備委員: 島芳夫(=委員長、京都大文学部)、坂田吉雄(京都大人文科学研究所)、世良壽男(大谷大)、高田武四郎(同志社大)、立花勝(大谷大)、田中熙(関西大)、平野武夫(京都学芸大)、保田清(京都大文学部)、湯浅南海男(京都工芸繊維大)、遊亀教授(龍谷大)

幹事: 鷹阪龍夫(京都市立美術大)、肥後政平(京都大文学部)、吉田忠勝(京都大文学部)

10月8日、発会式を午前9時より、京都大学文学部で行なう。出席者77名。同日午後に公開講演会を催し、実質的な学会活動に入った。講演は、伊藤恵奈良女子大学教授「カント倫理説とその応用」、島芳夫京都大学教授「道徳的事実と社会的事実」。

第一期委員・監査・幹事: (委員長)島芳夫、(委員)相原信作(大阪大)、伊藤恵(奈良女子大)、川村喜久治(甲南高等学校)、坂田吉雄(京都大人文研究所)、高田武四郎(同志社大)、田中熙(関西大)、長谷川寅雄(姫路工業大)、服部英次郎(名古屋大)、平野武夫(京都学芸大)、松原定信(滋賀大)、室田泰一(岐阜大)、保田清(京都大文学部)、山本幸雄(大阪学芸大)、湯浅南海男(京都工芸繊維大) (監査)小村雷教(姫路工業大)、世良壽男(大谷大)、 (幹事)鷹阪龍夫(京都市立美術大)、肥後政平(京都大文学部)、吉田忠勝(京都大文学部)

ところで、この年には、日本倫理学会も創立され、11月25日第1回大会総会を開催した。同じ時期に、東京と京都で別個の倫理学会が設立したことには若干の当惑が生じたようで、日本倫理学会編『倫理学年報』第49集(2000年)に、市倉宏祐氏がこう記されている(「回想」、同上、287頁)

学会の創立当初の大きな問題としては、関西倫理学会との合同の問題がありました。関西倫理学会はすでに活動をしていたこともあって、後発の日本倫理学会としてはこれとどう合同して、全日本的な学会にするかということが一つの課題でありました。いろいろと話し合いがなされたようでした。以下のことは私の伝聞です。関西倫理学会の申し出もあって、全体として合同した場合には、学会事務をどう行い、役員や会費をどう分けるかなど、さまざまなことが論議されたようです。結局、関西倫理学会は会員の個人参加ということに落ち着き、ただし日本倫理学会の評議員の枠を関西地方の方に五名取っておくということに決まりました。この取り決めは二十年ほど守られてきました。

関西倫理学会の会報第2号(1951年2月20日)に、島芳夫委員長(当時)の説明が載っている(同上、9-10頁)。

種々談合の結果次の如き原則的了解に達した。

一、地域学会の自主性を尊重しその活動は全く自由たること、二、地域学会の単なる聯合では学会としての組織が弱いから日本倫理学会に参加すると云ふ形式をとること。尚日本倫理学会は翌二十五日に発会式を行ひ、評議員二十五名の中十五名東京側が選挙され十名は地方から推薦されることになり、中五名は関西側から出すことになった。会長は和辻哲郎氏に決定した。関西側は十二月十日委員会を開き右の原則的了解に就て討議した。最も問題になったのは参加の形式と会費の点である。即ち関西倫理学会は道徳教育の研究と云ふ面で教育者を広く包容している特殊性があるから全部の会員を日本倫理学会に参加させることは適当でないといふこと。次に日本倫理学会の会費は年二百円でこれは機関雑誌「叙説」の配布に当てられるが然る場合は関西の学会の会費を合して四百円にあると云ふ点である。第一の点は参加は強制せず成るべく多数の参加を勧説することに落付いた。第二の点は関西側の会費を百円に半額すると同時に日本倫理学会の側に若干の補助を求めることに決定。後者は両学会の財政に関係する故更に交渉を要する。又我々も不足額の補填に対策を講じている次第である。参加問題は勿論大会に於て決定されることであり、委員会の決定は方針の暫定的決定にとどまる。従って機会が熟すれば緊急大会の開催が考慮されるだらう。ただ我々の念願は地域学会の充実を図ると同時に日本倫理研究者の大同団結を図りたいことにある。中央集権主義も地方的割拠も共に学会の健全な発達に有害である。

結局、島提案の第二の点は、日本倫理学会が機関誌の発行を予定しているので財政上できないということになり、第一点の個人参加の方向で決着した(会報第4号、1951年12月15日)

11月20日、会報第1号を発刊。

12月10-11日、第1回研究会。出席者47名。第1日は同志社大学を会場とし、研究報告がなされ、第2日は京都市立朱雀第六小学校で「社会科授業参観」、「授業についての意見交換」、「今日における道徳教育についての懇談会」という日程だった。以後、当初は研究会や公開講演会を年数回のペースで開催していた。

1951年(昭和26年)

10月12-13日、第1回総会ならびに大会を京都大学文学部で行う。以後、総会ならびに大会を年1回のペースで開催する。例年の大会については別掲(大会の記録)。大会以外に、春に公開講演会と研究発表会、その他、年に1-2回の研究会を開くのが通例となった。

1952年(昭和27年)

1月21-22日、京都学芸大学で道徳教育研究協議会を開く。京都学芸大学教育研究所、京都府教育委員会教育研究所、京都市教育研究会との共催。

1967年(昭和42年)

この年から年2回、大会を開く。

1969年(昭和44年)

従来の会報とは別に、機関誌を刊行することに決定した。

1971年(昭和46年)

この年からふたたび大会は年1回とする。

機関誌『倫理学研究』第1集を刊行する。以後、年1冊ずつ発行している(倫理学研究総目次)。

1981年(昭和56年)

創立以来、委員長を勤めた島芳夫が退任。長年の労苦を謝す。後任は岸畑豊。

1990年(平成2年)

『倫理学研究』第20集を記念して、晃洋書房より『現代倫理学の課題』を刊行する。

1991年(平成3年)

岸畑委員長退任。後任は中村正雄。

1995年(平成6年)

中村正雄委員長退任。後任は塚崎智。

1997年(平成9年)

塚崎智委員長退任。後任は川島秀一。

2001年(平成13年)

川島秀一委員長退任。後任は有福孝岳。

2003年(平成15年)

学会ホームページを開設する。

有福孝岳委員長退任。後任は加茂直樹。

2005年(平成17年)

関西倫理学会優秀論文賞を制定。対象は、『倫理学研究』応募論文のうち、若手研究者(論文が記載された号の発行年の4月1日現在で40歳以下)の執筆したものとする。2006年4月発行予定の『倫理学研究』36号から適用。

会費を年6000円から5000円に値下げ。それにともない、会則第六条を改定(4月1日)。

2007年(平成19年)

加茂直樹委員長退任。後任は安彦一恵。

2009年(平成21年)

「関西倫理学会大会における口頭発表応募要領」と「関西倫理学会公募論文応募要領」をさだめる。「関西倫理学会大会における口頭発表応募要領」制定の主な趣旨は、すでに暗黙のうちにみとめられていた方針を明文化して、発表内容を会則第二条「本会は倫理学および道徳教育の研究を目的とする」の趣旨にそったもので、日本語で公表したことのないものとした点。「関西倫理学会公募論文応募要領」制定の主な趣旨は、執筆要領、編集委員会における審査、採否後の処置についての明文化である。

2010年(平成22年)

会則を改正。改正内容は、現行の措置の明文化や条文の不備等に関するテクニカルな修正。

また、『倫理学研究』の刊行日は、41号までは3月末としてきたが、42号以後、6月末とすることとした。これは、大会での口頭発表を論文として活字化するまでの期間を短縮するため。

2011年(平成23年)

安彦一恵委員長退任。後任は石崎嘉彦。

2013年(平成25年)

石崎嘉彦委員長が再任。

2015年(平成27年)

石崎嘉彦委員長退任。後任は工藤和男。

2017年(平成29年)

工藤和男委員長が再任。

2019年(令和元年)

工藤和男委員長退任。後任は水谷雅彦。

2021年(令和3年)

水谷雅彦委員長が再任。

2023年(令和5年)

水谷雅彦委員長退任。後任は森田美芽。